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介護を考える10.アート

介護の日常から生まれるアート
インタビュー:折元立身(現代美術家)

今年96歳になった母親・男代さんと二人で暮らす折元立身さんは、これまでにヴェネツィア・ビエンナーレや横浜トリエンナーレなど国際美術展に数多く参加し、海外で回顧展が開催されるなど、国際的に評価される現代アーティスト。代表作のひとつに、認知症とうつ病を患った母親の介護という現実をパフォーマンスアートとして作品化した「アートママ」シリーズがある。自宅や近所の公共スペースで行うパフォーマンスを記録した一連の写真からは、介護の日常のリアリティとともに、母親への強い愛情に根ざしたユーモラスかつポジティブなイメージを併せ持つ。20年以上にわたって日々作品を生み出し続けている、神奈川県川崎市の自宅に折元さんを訪ねた。

ニューヨークで出会ったパフォーマンスアート

ーー 折元さんは、いわゆる美術学校の教育を受けずに、1969年にアメリカへ渡っていますね。
折元 子どもの頃から絵を描くことが好きで、美術がやりたくて芸大を7回も受けたんだよ。受けないと、親父に働かされちゃうからさ。当時は4畳半の狭い部屋に家族5人で住んでたから、油絵なんか描いてると父親が油臭いって言うんだよ。それで、おふくろがこっそりアパート借りてくれたの。バイトしながらそこで勉強して、でも何度受けても受からなかった。裸体をデッサンしても静物を描いても、俺はもう、なんかこう自分の感情が出ちゃうわけよ。予備校の先生には、『折元君はすでにアーティストになっている。学校は勉強するところだから、もう作家になっている君に入学は無理だ』と言われたよ。でも、結局は入らなくて良かったね。ニューヨークに行って、すごいもの見てきたから。
ーー 最初はカリフォルニアのアートスクールに通い、1971年にはニューヨークへ移って、最先端の新しい美術を見て回ります。
折元 1960年代から70年代は、世界の美術の中心がパリからニューヨークに移って、SOHOエリアにとてもエネルギッシュなアートシーンが起こっていたんだよ。自分もラッキーなことにSOHOにスタジオを構えることができて、ナム・ジュン・パイクに出会い、前衛芸術運動のフルクサスにも関わることになった。初めてパフォーマンスアートを知ったのもこの頃かな。それまで平面作品しかつくってなかったから、見るものすべてが新しいアートだった。俺はニューヨークで、頭の中の〝アート〞から自由になったんだよ。
ーー アメリカで8年暮らして、1977年に帰国します。
折元 ニューヨークのスタジオを人に貸したまま、ふらっと帰ってきたら、日本は景気が良くて、仕事とお金があり余るほどあったんだ。それで、ディスプレイの仕事で稼ぎまくって、そのお金で、行ったことのないヨーロッパやアジアを旅行しながら、実験的な作品をたくさん作るようになった。頭の中はもう自由になってたから、どんどん個性的な作品ができて、「パン人間」もこの頃にできたんだよ。
ーー 顔にパンをつけて、路上に出没するパフォーマンス作品ですね。
折元 ギャラリーや美術館の中から飛び出して、公共の場所、道路やレストラン、駅や病院でもやったね。突然パン人間が現れると、みんな驚いたり、笑ったり、怒ったりするでしょ。そのリアクションを記録したコミュニケーションアートが自分の作品の特徴だと気づいて、世界各地でパフォーマンスをするようになったんだ。

生活のリアリティが生み出した「アートママ」

ーー そんな時期にお父さまが亡くなって、男代さんの面倒を見る必要に迫られます。
折元 父が今から20年前に86歳で死んでしまい、母は軽いうつ病とアルツハイマーにかかって、同居していた自分ひとりで世話をするようになったんだ。もう、今までのように世界中を自由に飛び回っていられないなと、困ったよね。それで、ある日風呂に入りながら考えて、そうだ、この母を世話をすること自体をアートにしようと思った。二人の生活のリアリティが、他にはないオリジナルのアートなんだと。
ーー 「アートママ」の誕生ですね。
折元 母の散歩や食事、誕生日などを写真に撮って日記にしたり、大きなパンを持って二人で写真におさまったり、母が使っていた私物を材料にオブジェをつくったり、二人のコラボレーションアートが次々に生まれていったんだ。2001年にはヴェネツィア・ビエンナーレで「アートママ」のシリーズが展示されて、世界で知られる代表作にもなった。
ーー 現在のお二人の普段の生活を教えて下さい。
折元 月曜から土曜までは、夕方5時からご飯をつくるためにホームヘルパーさんに来てもらうんだ。それで、月・水・金は朝10時から夕方5時までデイサービスを頼んで、その間に俺は作品を作ったり、外へ出ていけるわけ。火曜と木曜は訪問看護師さんが来て、身体を診てくれたり、前の日に下剤を飲ませておいて、うんちを出すの。もう自力では出せないからさ。でも朝起きると、ベッドの下にポトンと落ちてたり、びしょびしょになってたりもするから、大変だよ。あと1カ月に2回、往診の先生も頼んでる。今は寝たきりで要介護5だから、介護制度は全部使ってるよ。
ーー 一貫して在宅での介護にこだわっていますね。
折元 ケアマネージャーさんも、「立身さんは美術やるの大変だから、施設に入れたら?」って言うんだけど、俺はこの人と一日でも長く一緒にいてあげたいんだよ。俺がアートの道に進むことができるようになったのも、この人のおかげだから。大好きなんだよ。今年で俺も69歳だし、痛風だからさ、足が痛い時はもう本当に地獄だよ。生易しいもんじゃないんだ。でも、いまはまだ在宅で介護ができるからね。寝たきりでも、俺がちょっとお勝手に行ったりすると、目で追って俺を探すんだよ。仕事で海外に行く時はショートステイに預けるけど、1週間いないだけですごく弱っちゃう。でも、一緒にいれば、今みたいにお客さんが来たり、アシスタントと酒を飲んだりして、そばに「居る」っていうことだけで刺激になるわけ。それに、おふくろを看護すること自体が、俺のアートの栄養、エキスになってるわけだし、それがあるから人を感動させられる作品ができるんだ。
ーー 今も新作の準備中とうかがいました。
折元 ヒエロニムス・ボスの絵をカラーコピーしてトイレの壁に貼って、おふくろを便器に座らせるんだ。そしてバスルームにはブリューゲルを貼って、俺がバスタブに座ってるの。それを一緒に写真に撮ろうかなと。もう座ってるのもやっとの状態だから、もしかしたら最後の作品になるかもしれないけど、100歳になるまで二人で「アートママ」を続けられることを祈ってるよ。

折元立身(おりもと・たつみ)1946年神奈川県生まれ。1969年に渡米し、カリフォルニア・インスティテュート・オブ・アートに学ぶ。1971年、ニューヨークへ移住し、フルクサスの活動に参加。1977年に帰国後も、サンパウロ・ビエンナーレ、ヴェネツィア・ビエンナーレなど数々の国際美術展に参加。代表作に、パンを顔につけて街頭に出没する「パン人間」のパフォーマンス、実母とのパフォーマンス「アートママ」などがある。